−口は禍の 2− 1 2 (全)

<2>


 卒業式当日、午前八時。
 三月半ば、ようやく春めいてきたとはいえ朝の風は充分に冷たいが、臨戦態勢に入った東谷家は熱気にあふれていた。いや、殺気立っていたというべきか。
 式の始まりは午後一時。式辞、卒業証書の授与、祝辞、代表挨拶があり、問題のショーはその後だ。
 共用の控え室はもちろんあるが、家からショーの衣装で行くことにした。
「荷物が大変」
「なんでわざわざ洋装で行く必要がある」
「めんどくせー」
「お姉ちゃんの卒業式見たい」
「人の多いところで着替えたりとかはちょっと」
 思惑はそれぞれだが、勝手気ままなこの面々には珍しく一応全員一致で決まっただけに気合も満々、六時起きで準備を始めている。
 右喜は左之助と央太を上下衛門に任せ、まず剣心の支度にかかった。
 自室のドレッサーの前に剣心を座らせ、鏡を見据える。
 静かに深呼吸をして、櫛を手に取った。
 はっきり言って今日の出来は剣心次第だと彼女は思っている。
 剣心にしてもらうのはルールに則った王道和装。きもの半分洋装半分に自己流アレンジを施した右喜の和装もどきとのコントラストを見せるというのが狙いなのだが、そのためには地味で面白みに欠けると思われがちな正統派の着物姿をそれ以上に鮮やかに見せなければならない。そうでなければ、どんな新しい工夫もただ奇をてらっただけの小手先遊びに終わってしまう。
 髪を梳く手が慎重になるのももっともだった。
 日頃洗いざらしの髪を念入りに梳かしつけ、
「すごいツヤツヤ。アップにしちゃうのがもったいないくらい」
 と溜め息を吐きながらも手早く結い上げ、ピンで流れを固定する。
 その見事な手際に剣心は感心した。
 ひとつに束ねるだけでもバサバサと毛束が飛び出して始末の悪い髪が、右喜の手にかかるとあっという間にきれいにまとまってしまう。
 鏡の中の右喜を見つめる剣心の口許がほころんだ。
「なに? 自分に見とれてんの?」
「まさか。右喜ちゃん、楽しそうだなと思って」
「当然」
 話がまとまった日から昨日までの十四日間、右喜は全力投球で準備にかかっていた。
 衣装に手を加え、イメージ通りの小物を捜して駆け回り、あれかこれかとコーディネートを組み立て、その合間に男の剣心をきれいな和服姿の女性にするための補正用品を手作りする。ファッション業界の派手なイメージとは裏腹に、服飾の作業は地味で雑多だ。だが右喜はそれらを苦にしないどころか嬉々として取り組んでいた。
 さすがだと思った。
 内輪とはいえファッションショーのモデルなど、ましてや女装するなど考えただけで何度も夢にうなされるほど恐ろしい事態だったのだが、そんな右喜の姿を見ているうちに「この子の役に立てるならいいか」と思うようになった。
 不思議な子だ。
 それに、どうも自分はコレ系に弱いらしい。
 そんなことを考えている間にも用意は着々と進んでいく。髪が終われば、次は顔。
 ステージと同じ白熱灯を点けて右喜が言った。
「ちょっと熱いけどガマンしてね。蛍光灯だと色が違っちゃうから」
「いいよ、好きにして」
 目を閉じて顔を預けた。右喜の指先や何か湿ったものや刷毛が頬や瞼に当てられては去る。多少くすぐったいのを我慢しておとなしくしていると、しばらくして「これで終わりだからね」という声と共に顎に指が添えられ、唇にぬるりとするものが触れた。
「ちょっと口開けて?」
 下唇。次いで上唇。なんだか自分の唇ではないような違和感を覚えた。
「はいオッケー。いいよ剣ちゃん、メイク完了!」
 目を開けて、もっと驚いた。
 誰だ、これは?
 思わずポカンと口を開けて見入っていると、鏡の右喜と目が合った。
「剣ちゃんサイコー! っていうか、さすが私?」
 その声を聞きつけたのか、ドアの外では上下衛門と左之助と央太が開けろ見たいと騒いだが、右喜が首だけ出して全部できるまではダメだと追い払った。
「さ、じゃあきもの着ちゃおう!」
 照明を蛍光灯に戻し、一気に着付けにかかった。手製の補正肌着、長襦袢、着物を次々に着付け、あっという間に帯を締め終える。その間、わずか十分。
「すごい。早い」
「慣れたらこんなもんよ」
 言いつつ、帯揚げを整えて補助紐やクリップを外し、剣心の体をクルリと回転させて鏡に向けた。
「っし、完成! どうっ?」
 と、言われても。
 こんなシロモノを前に一体なにをどう言えというのだろう?
 絶句した剣心を見つめて右喜は大いに満足気に何度も深く頷き、その手を引いてやおら部屋のドアを開けた。
「あっ、右喜ちゃん、ちょっと待っ……」
「ジャジャーン! どうどうどうっ?!」
 弱々しい抗議などまったく聞く気もない右喜の手でぐいっと廊下に押し出された剣心の姿に、駆け寄ってきた親子三人はぽかんと口を開けた。
「――――――!!!」
 かわいらしい袴姿の央太と、身支度真っ最中らしく紐やら何やらを引きずったままの左之助、その紐の端を持つ上下衛門。
 三人揃って目をまん丸に見開き、顎を前に突き出して、魂が抜けたような表情で見つめている。
 剣心が着せられているのは、右喜の母親が遺した訪問着である。
 黒に枝垂れ桜を鹿の子に染めた総絞り。帯は白の綴れに銀糸ペルシャ華文の刺繍、帯揚げに墨の格子柄。その無彩色のなかに帯締めだけが、ひとすじ朱い。結い上げた髪の一房を抜き取ったようなその点し色が、ハッとするほど鮮やかだった。
 ゴクリと喉の鳴る音が聞こえた。
 剣心は気恥ずかしくていたたまれない。三人の凝視に耐えかね、右喜の背中に隠れようとした。だが背後に回ろうと半身になったために後姿をギャラリーの目にさらす結果となり、すんなりと伸びたうなじの白く儚げな様子と袖の振りにちらりと走った襦袢の朱色で若い盛りの長男を悩殺した。
 何を血迷ったか目を血走らせてふらふらと歩み寄ろうとした左之助を肘の一撃で床に沈め、上下衛門が感嘆の声をあげた。
「うへえ。こいつぁまたえれぇ別嬪さんになったもんだ」
「すごーい! 剣ちゃん女の人よりキレイだー!」
「ハ、ハハハ……」
 父に続いた央太の賞賛の言葉はあまりに純粋すぎて、もう笑うしかない。
 首を傾げて少し困ったように笑ったその顔を見て、沈没したままの左之助が獣じみた唸り声を発したのは皆聞こえないふりをした。
「ど? ちょっと上出来?」
「ちょっとどころかよ。いや、こりゃ俺も張り切った甲斐がある。お前なかなかやるなあ」
「だから言ったでしょ? 襦袢は絶対こうだって」
 袖の振りから朱と見えた長襦袢は、しかしよく見れば一色ではない。肩から裾にかけて濃い橙色から緋色へと少しずつ移るごくゆるやかなぼかし染めになっている。
 今回の衣装はほとんどが央太を生んで間もなく他界した菜々芽のものだが、この襦袢だけは新調品だった。
 しかも、どうしてもとこだわった右喜が、既製品では納得できず、上下衛門に頼み込んで急きょ反物を染めてもらい、それを自分で縫い上げたというではないか。
 そんなこととは知らなかった剣心は、それを聞いて驚いた。
「だって右喜ちゃん、さっき見えないって」
 着付けの最中「派手じゃない?」と心配した剣心に右喜は「大丈夫、じっとしてたら見えないから」と言って安心させたのだ。
 たしかにじっとしていれば見えない。だがじっとしていれば見えないものが起ち居振る舞いにつれて不意にのぞくからこそ見る人をドキリとさせるのだが、そんな恐ろしいことを剣心が知るはずもない。
 見えないならそこまでしなくても。
 素直にそう思った。
 すると、その気持ちが顔に出たのか、上下衛門が片頬で笑って言った。
「見えねえとこに凝るのが意気ってもんだ。それにテーマに好適だろ?」
「テーマ?」
「忍ぶ恋、とか何とか言ってなかったか右喜?」
「うん、そう、忍ぶれど。百人一首にあるやつ」

   忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで

「だからね。その秘めた情念がこの襦袢でね。隠そうとするんだけどやっぱり隠しきれないのね。で、つい出ちゃう。だから帯締めだけ赤いの」
「………………」
「あれ? 剣ちゃんどうしたの? 顔、真っ赤」
 どうしたもこうしたも。
 まるで自分がそう(・・)だと言われているようで、恥ずかしくて顔から火が出そうだった。
 まさかそんなつもりで言っているのではないだろうが、なんだか何もかもすっかり見透かされているような気さえしてくる。
 これではいつかの悪夢そのままではないか。
 なんでこんなことを引き受けるハメになってしまったんだ? ああもう、うっかりいいなんて言うんじゃなかった。
「やだ。別に剣ちゃんがそうだって言ってるわけじゃないわよ。あ、もちろん、イメージはそうなんだけど!」
 右喜が場違いに爽やかな笑顔でフォローのつもりの駄目押しをする。だが幸か不幸か剣心は左之助の方を見ないよう自分に言い聞かせるのに必死で、右喜の言葉などてんで耳には入っていない。その左之助はといえば、着付け途中のだらしない格好のまま膝を揃えて床に座り、呆けたような表情で剣心に見入ったまま。そしてそんな三人を見て上下衛門はいかにも楽しそうにガハハガハハと笑いが止まらない。
「ねえ、早くしないと遅れるよ?」
 ひとり冷静に央太が事態を指摘した。


 とにもかくにも全員が支度を終え、簡単な食事を摂って卒業式会場に向かったのはそれから約二時間後だった。
 大学や高校とはちがって専門学校の多くは都心にあり、体育館や運動場、講堂といった大きな施設をもたない。そのため入学式や卒業式はホテルや会館を借りて行うことが多く、右喜の通う学校も例外ではなかった。
 ホテルの車寄せにタクシーが止まり五人が降り立つと、ロビーにいた人々の目は一斉に彼らに釘付けになった。居合わせた客ばかりか、接客のプロとしていついかなるときも冷静かつにこやかな対応をするべきホテルスタッフ達までもが目を奪われている。
 京都市内の伝統あるホテルでは、和服も盛装も珍しくもなんともないはずだった。しかもまもなく二階の宴会場でファッションデザイン専門学校の卒業式が始まるとあって、エキセントリックな服装の若者や個性的なデザインスーツを着こなした列席者がわらわらと歩き回っている。
 しかしそんな場でさえまわりじゅうの注目を集めてしまうほどに、この「家族連れ」は目立っていたのである。
 先頭に立つのは今日の主役の右喜。薔薇色に洋花を散らした大胆な銘仙の下に、西洋のアンティックドールが着ていそうなフリルのブラスを着て袖と襟をひらひらさせ、帯代わりに濃いローズピンクのシフォンを背中で大きく結んで垂らし、帯締め様にビーズの紐を何重かに巻きつけ、足元はレースのストッキングと先の丸いエナメルの靴。いかにもの奇抜な格好である。
 そして三つ紋の黒羽織が四人。央太は羽織袴を着せてもらって微笑ましい姿を披露している。その手をひく上下衛門は、今は祖父。黒地に茶の千筋、お召しの袷、紺の無地献上博多帯を低く締め、やせぎすな肌に京というより江戸の粋を見せたあたりはさすがというべきか。少し遅れて、黒羽二重に仙台平の縞袴を着けた左之助。よくいえば豪胆、悪くいえばふてぶてしいのが幸いして、不慣れを感じさせないどころか、颯爽としたなかにも右喜の父親と言って不自然ではないだけの貫禄さえ漂わせている。浅黒い鼻筋の通った、濃い眉の下の目に、折り目の立った正装でも覆いきれない剣呑さをのぞかせている、その陰に、半身隠れて剣心。身内三人で証明された完璧な化け姿に黒の長羽織をはおり、十四日間着続けた甲斐あって身ごなしも自然に、ますます匂うようないでたちである。
 おそろしいほどの衆人注視をものともしない一群の後ろ姿がエレベーターに吸い込まれると、その場にいた人々は申し合わせたように詰めていた息を吐き出した。


 予定通り午後一時に始まった式は、式辞、卒業証書の授与、祝辞、代表挨拶、そして卒業制作コンテスト入賞者のステージ発表と滞りなく進み、午後四時過ぎに終了した。
 続く専攻ごとの謝恩会を前に、あちこちで友人や家族と記念撮影が行われる。その一角に、異様に黒い人だかりができていた。つい先刻のショーで大好評を博して話題をさらった東谷家の一行だった。
「ウキ、すごかったでー」
「うん、まじでゾクゾクしたってば」
「ありがとう。でも自分で作ったのコレだけだしさ。ちょっとズルいかなーって」
「えー、そんなことないない」
「そやで。要はコーディネートなんやし」
「そそ。ていうか、モデルさんがすごいやん。プロなみ!」
「ねー! お父さん?超カッコイイ。てか、若いし」
「お母さんもなんかすごくない? なんかやってる人?」
 “モデルたち”の話になった途端、友人たちの目の色が変わった。好奇心丸出しで右喜に迫る。
「あ、ちがうよ。紋付のは、あれ兄貴。父親は柿渋の、老けた方」
 本番、上下衛門は羽織を変えた。マフラーを巻いてさらに着崩し、当初の企画にはなかった「祖父」の役を務めた。
「そっか、それやったらわかる」
「でもお兄さんでもカッコイイやん。ちょっと羨ましいかも」
「でもじゃあお母さんの人は?」
「え。あ、ああ、えっとね、」
 思えば訊かれて当然の質問だったが、そんなことまで頭が回っていなかった。なんとなく「家政夫さん」とも答えかねて返事に詰まり、つい声高になった。
「兄貴のおヨメさん!」
「――――?!!」
 にこやかな表情のまま、剣心は声にならない悲鳴をあげた。
 ……だれかあの子を止めてくれ。
 冗談ではなく目の前がふわりと揺れてよろめいた、その肘を左之助が咄嗟に支えたのを見て、子どもたちが「おお〜〜」とどよめく。
 自分で火に油を注いでしまった剣心はもう一秒でも早くこの場を離れたかったのだが、さっきから右喜の未来の上司と上下衛門が呉服業界の話で盛り上がっている。早く帰ろうとも言い出せない。
 なるべく目立たないように待っているつもりだったが、黙って立っているだけで目立つことこの上ない格好をしているうえに、ショーを終えた今、今日一番の注目株である。周囲が放っておくわけがない。だが、あまり話すとどこでボロが出ないとも限らない。あれこれ話しかけられる受け応えは左之助に任せ、広い背中に隠れるように佇んでいたところへ右喜の兄嫁発言である。居合わせた人からすれば当然というかそれ以外にないというくらいに予想通りのことではあったが、剣心はもうどうにもいけない。左之助の腕に軽く触れて目で訴えた。
 訴えられた左之助は、心細そうに上目遣いに見上げてくる姿に鼻の下が伸びそうになるのをなんとかこらえ、「ちょっと失礼」と人波をかき分けて右喜の肩を叩いた。
「こいつちょっとしんどいみたいだし、俺ら先帰るわ」
「あ、え。け……大丈夫?」
 さすがに名を呼べない。
「おう。慣れねえことしてのぼせただけだろ。悪ぃな」
「うううん。ごめん、ありがとね。ゆっくり休んで?」
 左之助越しに剣心を見て、右喜が言った。
「うん。ごめんね、右喜ちゃん」
 すみませんがお先にと周囲に挨拶をして二人は輪を抜けた。
「すごー。まさに美男美女。迫力!」
「ほんと。あれじゃ全作出したくなる気持ちも判るわぁ」
「ねえ! タロちゃんとか、モデルがいなくて諦めたって」
 折り紙細工のようなドレスをワシャワシャいわせながら、少女が別の発表者の名前を挙げる。
 その会話を、上下衛門が聞きとがめた。
「おいおい。今日のショーは全作品を出さざならねんじゃなかったのか?」
「えっ。ちがいますよ。そりゃそれがベストですけど、あくまで“できれば”ってことで」
「スケジュールとか、素材とかの問題もありますから」
「ほおーう。そうだったのか右喜ぃ。」
「お父さん! だってホラ、やっぱせっかくだしさ。……お、お兄ちゃんたちには絶対ナイショよ!」
「さあてなあ」
「お願いってば! 央太あんたもよ。みんなもお願いね。あの二人には絶対それ言わないでね。必須だからって言って無理矢理出てもらったの。嘘ついたってバレたら、私まじで殺される!」
 あまりに必死な右喜の形相に、友人たちは顔を見合わせた。
「ええけど……お兄さん、そんなコワイん?」
「殴ったりとかするの?」
「いや、あのぅ……。どっちかってーと、あのおヨメさんの方……かなぁ?」
「はあ?!」
「あんな楚々としたきれいな女性(ひと)があ?」
 そんな楚々とした姿しか知らず、当然ながら剣心を女性と信じて疑わない彼らが信じられないのも無理はない。右喜は、以前家事の邪魔をした左之助が一本背負いで投げ飛ばされて気絶したときのことを語った。
「し、信じられへん……」
「スゴすぎ。女は見かけによらんねなあ」
「てか、そんなことで投げるかフツー」
「だからフツーじゃないんだって」
 ついでに女でもないし。と、右喜が内心で呟いた時だった。
 つい先程まで学生だった若者たちの甲高い騒ぎ声の向こうから、それよりもなおこの場に似つかわしくない異様な音が聞こえてきた。
 天敵に襲われた動物を思わせる壮絶な悲鳴と、地を這うような怒声。ものすごい勢いで人が走り回っているらしい地響き。ものの倒れる音、居合わせた人々の悲鳴、制止しようとするホテルスタッフの必死の呼び声。
 二階のホールにいた学校関係者は、何事が起こったのかと吹き抜けから身を乗り出して階下をのぞいた。
 そして彼らは見た。
 卒業式で今日最も注目を集めたあの麗人が、実に潔く裾を蹴立てて猛然とひとりの男を追いかけ回す姿を。
 白い脛もあらわに緋色の襦袢を翻して走る“彼女”が追いかけているのは、ジーンズにフリースのセーターという身なりの冴えない男。そしてさらにその後ろを彼女の“夫”が追うのは、どうやら留めようとしてのことらしい。
 あまりにも突然の展開にだれも事情が飲み込めず、呆気にとられて彼らを見ていた。
 一緒になってポカンと口を開けた右喜の手を引いて、央太が囁いた。
「お姉ちゃん、剣ちゃんナニ怒ってるの? それにあれダレ?」
 またもや非常に冷静かつ現実的な弟の声に、右喜はハッと我に返った。
「やば、止めなきゃ。でもどうしようお父さん!」
 だが上下衛門は完全に高みの見物を決め込むつもりらしい。金色の手すりに頬杖をついて、「いやー、よくあんだけ走れるもんだ」などと呟いている。
「妙なことに感心してないで止めてよお父さん」
「どうやって?」
「……」
 そうだ。あんな風になった剣心をいったい誰が止められるというのか。
 お願い、なんとかして!
 右喜は藁にもすがる思いで、最後尾を走る兄に心からのエールを送った。


 ようやく脱出に成功した剣心と左之助がエレベーターで一階に降り、エントランスに向かおうとした時のことだった。ロビーの中ほどで、ちょうど地下のチャペルから階段を上がってきた一団と行き合った。結婚式の下見と思しきカップルと、どちらかの母親らしき女性。案内のホテルスタッフが二人。
 ジーンズにフリースのその男の顔を、剣心は知っているような気がした。
 だれだっけ?
 最近見た顔だ。
 でもどこで?
 そうだ、あの地味な顔。今は取り澄ましているが、あの唇の端をニュルッと引きつらせて人を見下したような笑い方をさせれば……。

   「なんやねん! ほんとのことやないか」
   「黙れ。だいたい貴様に何の関係がある」
   「やだなあもう、英二さんも剣心さんも。ほら、こうして乗り合わせたのも何かの縁なんだから
    仲良くしてくださいよぅ」
   「うるさい」
   「わ、わわわ」
   「……痛っ、なにすんねんお前! 手ェ放せや! うぐっ……」
   「ちょ……剣心、やめろってオイ!」
   「お前も黙ってろ」
   「もういいから! 俺気にしてないって!」
   「俺がよくない!! お前が止めるな馬鹿者」
   「ぐへっ…ぶっ……ゴフッ」
   「キャー!」
   「バカ剣心!! マジやめろって!」
   「放せ――!」
   「わー!ケンカはやめてくださいー!」
   「だれかそいつどっか連れてけー!!」
   「貴様逃げるなー! 逃がさんぞーー!」

「……思い出したぞ貴様だ! 今度こそボコボコにしてやるーー!」
 叫ぶと同時に、剣心は男に飛び掛っていた。
 だが、たかだか十四日間の特訓ではおとなしく歩いたり座ったりするのが精一杯で、思いきり喧嘩ができる状態には程遠い。
 とりあえず草履を脱いで足元を軽くし、ジーンズにスニーカーで身軽に逃げる男を追いかけた。
 男の方は、最初、相手がだれだかわからなかった。美しい和服姿の女性が自分に向かってくるのを見て自意識過剰な想像をめぐらし、「いや、こんな美人なら忘れるはずはない」などと首をかしげていたが、恐ろしい形相と物騒な科白からして、どうもそんな話でもなさそうだ。
 そして後ろからやってくる色黒の連れを見てハタと気付いた。
「お前! もしかしてカノープスの!」
 と、乗り合わせたモルディブクルーズの船の名を挙げた。
「おう。あのときは邪魔が入って残念だったな。今日は逃がさんぞ」
 言う目が爛々と輝いている。蛇に見入られた蛙状態に陥った男は、彼が女の格好をしていることを不思議に思う余裕もなくヒクヒクと震えていたが、相手が背後から名を呼ばれて一瞬ひるんだ瞬間我にかえり、猛然と逃げ始めた。
 いっそホテルの外に逃げてくれれば被害も少なくてすんだものを、男は人が多い場所の方が誰かが相手を抑えてくれるだろうなどというぬかりない計算をめぐらし、敢えてホテル内を逃げ回ったのだった。


 一部の人々にとって悪夢のようなこの騒ぎは、意外な形で終わりを迎えた。
 剣心の標的となっていた英二という男の婚約者が参加したのである。
「英ちゃんその人なんなの!」
 当然の誤解だ。結婚式の打ち合わせにきたこのホテルで二股をかけていた相手とばったり出くわし、その女が自分が遊ばれたと知って怒っている。彼女の目にはそうとしか映らない光景である。まさか婚約者を追い回す美人が実は男で、二月に乗り合わせたクルーズ船でのもめごとが尾を引いているなどとは想像もつかない。いや、つく方がおかしい。そして当然、二人の後ろを追う羽織袴の男が“彼女”の何であるかなど考える気もない。
「ちょっとアンタ!うちの英二になんの用!」
 早くも妻気取りの言い草だが、それに気付いたのは彼らに同行している英二の母だけだった。おやおや意外と気の強い娘さんやわとでも言いたげに肩をすくめて行方を見守る。
 これにはさすがの剣心も気をそがれた。何せ相手は仮にも若い娘である。
「え。いや、用っていうか、ちょっとその……」
「ちょっととチャウでしょ! なんやのボコボコって!!」
「いや、ホントにちがうんだお嬢さん、こりゃちょっとした手違いで……」
 何事かを言い募ろうとした剣心の口を左之助が後ろから大きな手でがっぽりと塞ぎ、会話を引き継いだ。
「ちょっとした手違い? ちょっとした手違いでボコボコ? ていうか、だからアンタたちナニ!」
 ロビーにいるお客さまもホテルスタッフも、そしてもちろん二階に鈴なりになっている学校関係者も興味津々で事の成り行きに注目している。
 絶句した左之助の視界の端に、両手を握り締めて泣きそうな顔をしている妹の姿が見えた。
 目は女に向けたまま、剣心にだけ聞こえる声で囁いた。
『剣心。逃げるぞ。右喜に迷惑かけたくなかったらおとなしくしてろよ』
 左之助の狙い通り、右喜の名前に剣心がハッとした。
 後ろからは見えないその反応を掌で確かめた瞬間、左之助は剣心を横抱きに抱えてクルリと踵を返し、一目散に逃げ出した。
 あまりの逃げ足の速さに、いきまいていた女も不甲斐なくその背中に隠れていた男も、周りの野次馬も二階のギャラリーも呆気にとられてものも言えない。
 あっという間にドアの前まで行ったかと思うと、自動ドアが開くまでのひと呼吸の間に半身を返し、あんぐりと口を開いて見守る人々に、
「お騒がせしました!」
 と一礼し、つられて思わずきれいにお辞儀をしてしまったベルボーイの前を抜けて今度こそ走り去った。


 ドアの隙間から剣心を先に押し込むと、左之助は自分も続いて身を滑り込ませ、そのまま体ごと覆い被さって剣心の自由を奪った。だが二人ともまだ笑いの発作が止まらない。上気した顔で間近く視線を交わすと、二人同時に、弾けるように笑い出した。
 ホテルを飛び出した左之助は、剣心を抱えたまま通りをまっすぐ南へ疾走した。道向かいの城の塀が途切れ、大通りを横断してさらに二筋が過ぎたところで、ようやく、顔を伏せてしっかりと首にしがみついていた剣心を人目を引くことこの上ない恥ずかしい状態から解放し、タクシーを拾った。市の中心部にある剣心のマンションまではワンメーターで充分だ。その間なにがおかしいのか顔を見合わせてはクスクスと笑い続ける二人を、運転手がバックミラーでチラチラとうかがっていた。
 目に笑いを残したまま、剣心をドアに押さえつけて唇を重ねる。ぽってりと塗られた甘ったるいものを丹念に舐り取って顔を離すと、潤んだ瞳が切なげに見上げてきた。わずかに首を傾げて熱い息を零すそこには触れず、髪のピンをはずしていく。一本抜くごとにパサリパサリとほどけて艶やかに流れ落ちる。
「右喜ちゃんが、一生懸命、してくれたのに」
 胸元から見上げて剣心が言った。濡れた目に、少しだけ強い光が踊った。
 左之助の指が最後のピンをはずし、細い首を掌に捉まえる。
「じゃあ今度は俺が、一生懸命、してやる」
「バカ……」
 言って、腕を首に絡めた。少し身を伸ばした剣心が耳元で囁くと、左之助が片頬で笑った。
「すぐ泣くくせに」
 そして再び長いキスを交わしてくったりと崩れ落ちた剣心の体を軽々と抱き上げ――。

 口は禍の門。
 その言葉の意味を、剣心はまたもや身をもって知ることになる。




了/2004.07.05
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サイトOPEN1年感謝企画のキリリクで書かせていただきました。ゲッターTsuki様のリクエストは「思いっきりハッピー」。そして「剣心も左之助も幸せでラブラブなもの」。それがどうしてこうなるのか。Tsuki〜ごめん〜; ようこ拝









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