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口は禍の


「行ってきまーす! あたし今日コンテストの打ち上げだからご飯いらないし」
「俺も宴会だ。ちょっと遅くなる」
「あっ。待ってお姉ちゃん、お弁当、ちがう! それ僕の!」
「えっ、うそ。もうブーツ履いた。央太持ってきて。ちょっとお父さん押さないで」
 二人にも手狭なマンションの玄関で、親子三人がやいのやいのと騒ぐ声が響く。
「お前が邪魔なんだ。先行くぞ」
「やん遅れる。行ってきます! ……うー寒っ」
「行ってらっしゃい、気をつけてー」
 剣心の声に送られて慌しく二人が飛び出し、央太もひと足遅れで家を出た。
 小学生の央太は徒歩で、近くのファッションデザイン専門学校に通う右喜はバスで、川向かいの引き染め工場で働く上下衛門は自転車で。
 三人に弁当を持たせて送り出し、剣心は大きく息を吐いた。
「ふうぅ……」
 東谷家の朝は戦争だ。
 毎朝六時に“出勤”し、弁当と朝食を支度しながら、一家四人分の洗濯物第一弾を洗濯機へ。
 ちょうど出発時間の重なる三人が一気に起き出すせいで一坪の狭い洗面所は正月のバーゲン会場なみに混乱し、鏡と洗面台とトイレの争奪戦が毎朝飽きもせずに繰り広げられ、その三人が家を出るまでしっちゃかめっちゃかの大騒ぎが続く。
 剣心が家政夫として通うようになって約一年、これが東谷家の平日の朝のいつもの風景だった。
「さて、と」
 ようやく静かになったダイニングキッチンに戻って食卓を片付け、洗いあがった洗濯物をかごに移してバルコニーへ向かった。行きがけに、そこだけまだ閉まったままのドアを叩いていく。
「左之! お前もそろそろ起きないと、仕事遅れるぞ!」
 洗濯物を干し終え、窓を開けて風を通すと、冬の朝の冷気が家中を通り抜けた。
 その勢いで今度はノックをせずにドアを開け、ずかずかと部屋に入っていく。
「いつまで寝てる! 起きろ、てばっ!」
 と、力任せに布団を引き剥がした途端体が浮き、次の瞬間、剣心は左之助の腕の中にいた。
「おい。仕事中はやめろって言った」
「つーかお約束だろこの場合。誘ったお前が悪い」
 だれが誘ってなんか、と言いかけた口を問答無用で塞がれた。寒風にさらされて冷えた唇にじんわりと左之助の温もりが沁み通っていく心地よさに、つい目を閉じて体を委ねてしまう。
「あーあ、こんなに冷えて」
 頬を撫で、耳を包み、指先を舐め、左之助は剣心を暖めていく。
「だから乾燥機買おうって言ってんのに」
「いかん。洗濯物は日にあてて干さなきゃ。大体俺はそれが仕事なんだぞ?」
「いんだよ、んなこた」
「馬鹿。それじゃ俺が雇われてる意味がないってば。ほら、もういいだろ。どけって」
 ぴしゃりと額を叩かれ、左之助は眉を段違いに歪めて食いつこうとした。
「子ども扱いすんな。犯すぞ」
 だが言ったとたん壮絶な鉄拳が左之助の顎に炸裂した。まるで映画のワンシーンのようにきれいに吹き飛ばされ、大きな音をたてて床に落ち、鉄の打たれ強さを誇る左之助が白目を剥いて泡を吹く。
「仕事中。お前もとっとと支度して店行け」
「……ってえーー」
 顎をさすりながら、あいもかわらず凶暴な一家の家政夫兼秘密の恋人を見上げ、お前マジで二重人格なんじゃねえのかと口の中で呟く。だがそんな戯言に付き合っていてはプロの家政夫は勤まらない。剣心はかまわず窓を開けて空気を入れ替え、左之助の体の下から掛布団を引きずり出した。
「いい天気だから布団干したいんだ。大体お前、今日パスポート取りに行くんじゃなかったのか。もう絶対間に合わないぞ。ま、別にいいけどな俺は。一人でジンベエとマンタとハンマーとイルカ見てくるから」
「るせー! 休みなんだよ!!」
「へ?」
「だから店! 二月は月曜休み! 冬のダイビングショップは暇なんだよっ」
「えっ、休み? じゃあ、まだ起きなくても」
「そ、よかったの! 折角ひっさびさに朝寝しようと思ってたのになー。誰かさんに殴り飛ばされるわ布団持っていかれるわじゃ、二度寝もできねえや」
 剣心の大きな目がさらに大きく見開かれ、それから申し訳なさそうに翳った。
「ご、ごめ……。俺、また余計なこと」
 そう言って謝る剣心は、細い腕に掛布団を抱き締めて体を縮め、睫毛を震わせながら上目遣いに左之助を見上げている。さっきのキスの名残かいつもより赤みを帯びた唇をきゅっと噛みしめて左之助の言葉を待つ姿があまりにいじらしく、左之助は鼻の穴を膨らませて細い肩をがっしりと掴んで言った。
「いや! そんなこたもういいからさ、」
「あっそ。じゃあ俺布団干してくるわ」
「……は?」
 するりと腕を抜けたかと思うと、布団を抱えたままもう部屋を出るところだ。その後ろ姿を呆然と見送り、左之助は「やられた」と深い深い溜め息をついた。


 午前十時。朝の勤務を終えた剣心が東谷家を出る。
 通常、家政婦の勤務時間は九時から五時の間が一般的だが、剣心は上下衛門の希望で朝夕各四時間ずつというイレギュラーな勤務をこなしている。
 朝が六時から十時、夕方が四時から八時。
 母親はいなくとも、子どもたちに「行ってきます」と「ただいま」の言える環境を作ってやりたいと上下衛門は言った。
 それと、あんたが働いてるところを見せてやってくれ。そうすりゃ、人が自分のために働いてくれてるってのがどれだけありがたいことか判るだろう。
 普通、依頼人と家政婦の関係はドライなものだ。お互いビジネスと割り切り、必要以上の介入は避ける。そうでなければ続かない。
 同じ紹介所から派遣された前任者たちが皆ことごとく一月と経たずに交代してしまっているのはそのためだろうか。
 多少変わった依頼人だが悪くはないと思い、引き受けた。
 そして、どこでどう道を踏み違えたのか、気がつけば自分でも信じられないほどに深入りしすぎて今日に至っている。
「おー。久しぶりだなーデート」
 施錠を確かめる剣心の横で、不肖の長男左之助がニヤけきった顔をしていた。
「デートって言うな恥ずかしい」
「デートをデートって言ってどこが悪い。ええーっと。まずパスポート行くだろ。それから昼飯食って、それからどこ行く?」
 左之助は鼻歌まじりどころかスキップでもしそうなはしゃぎようだが、それも当然といえば当然のことだった。ただでさえ久々の休日。しかも滅多に二人で出歩くことなどない剣心と一緒に出掛ける、その目的のひとつが二週間後に迫った二人の旅行の準備なのだから。


 話は三週間前に遡る。
 京都市西部のこのあたりでは十五日までとされる松の内が明けた、その翌日。
 左之助が突然言った。
『俺、ちょっとモルディブ行ってくる。お前、一緒に行かね?』
「モルディブ? っておい、ほんとに? しかもなんでまたいきなりモルディブ?」
『なんだよ、お前が言い出したんじゃないか』


 左之助が大阪市内のダイビングショップに就職してまもなく三年。社員とは名ばかりの使いっぱしり仕事にもなんとか耐え、暮れにはようやくダイブマスターの資格を取得しプロダイバーの一歩を踏み出した。次の夏は主戦力として海に出ることになるだろう。
 だが、順風満帆とばかりに浮かれていた左之助に、剣心が冷たく言ったのだ。
「人連れて潜ろうっていうんなら、日本の海ぐらい潜っておけ」
 かつて凄腕ガイドとして名を轟かせた剣心の言葉だけに、左之助はぐうの音も出なかった。
 たしかに、高校卒業と同時に関西に来て就職し、店で経験を重ねた左之助が知っているのは近海ばかり。紀伊半島の串本、白浜、古座、そして日本海は香住、竹野、越前。いずれも関西屈指のダイビングスポットにはちがいないが、剣心が言っている“日本の海”つまり日本が世界に誇る沖縄、小笠原の南洋の島々とは比較にもならない。
「そんなこと言ったって、金も暇もねんだから仕方ないだろ」
「仕方なくない! 金くらい貯めろ。暇なんか奪い取れ。どんな鬼上司だろうが、海のためって言えば説得できる。それでダメなら、そんな店辞めちまえ」
「人事だと思って簡単に言いやがって」
 だが剣心が正しかった。
 人に教える前に大きな海を見ておきたい、海の楽しさと恐ろしさを語れるインストラクターになりたい、だから休みが欲しい。
 週に一度のミーティングで左之助がそう言うと、鬼揃いの面々が見たこともないほど晴れやかな笑顔を見せ、二つ返事で許可が出た。しかも本人以上に盛り上がった周囲に押し切られ、行き先まで決められてしまったのである。
 インド洋の真珠、モルディブ共和国。
 いくつもの環礁からなるその領海を巡る七日間のダイブクルーズは、環礁から環礁へと船で航行しながらモルディブ屈指のダイビングスポットを潜りたおすという、ダイバーにとっては夢のようなプランである。
 三泊四日で沖縄本島にでもと思っていた左之助にとって、いきなり倍近くに跳ね上がった旅行費用は痛い出費ではあったが、しかしこの際そんなことは大した問題ではない。
 世界中のダイバーが目指す海。
 いつかはと思っていたそこに、本当に自分が行くのだ。
「うーーおおーー!」
 雄叫びをあげて飛び跳ね、すぐさま剣心に電話を掛けた。
『俺、ちょっとモルディブ行ってくる。お前、一緒に行かね?』
 そしてひとしきりすったもんだの言い合いをした挙句、結局行くことになった。
 たしかに左之助が言った通り、思惑はどうあれ言いだしっぺは剣心だったわけだし、それにそもそも彼が海と左之助に抗えるわけがなかったのだ。



 前夜遅くにコロンボを飛び立ったスリランカ航空UL454便が成田空港に着陸した。南国からの到着便を迎え、再入国カウンターにラフな服装の日本人が長い列をなす。その中ほどに左之助と剣心の姿があった。
 二人ともTシャツと短パン、素足にサンダル履き。気の抜けた恰好とはいえ、周囲も似たり寄ったりだ。
 だが。
 なあ、なんかさっきからじろじろ見られてねえか?
 お前があやしいんじゃないか?
 いや普通だろ。
 じゃあなんでだ?
 んなこと知るか俺が!
 顔を寄せ合ってコソコソと囁く二人は、そんな自分たちの行動がますます注目を集める結果を招いているとは気づかない。十日間の南洋生活でこんがりと灼けた左之助が醸し出す野性の獣じみた迫力と、それとは対照的に抜けるように白い肌を惜しげもなくさらした剣心の鋭い刃物のような存在感が、九時間のフライトでぐったりと疲れた人の目さえ引きつけずにおかないほど目立っているとは夢にも思わない。
 居心地の悪い十数分を過ごし、二人はようやく“日本”に入った。十日ぶりの寒さに備え空港に預けてあったダウンを着込み、羽田経由で伊丹へ。京都駅に着いた頃にはもうすっかり日が暮れていた。
「じゃ、また明日」
「おう、ゆっくり休めよ。ていうかもう一日休みゃいいのに」
「そうはいかない。もう充分休みすぎだ。それに」
 二月末の空港バス発着場は、年度を終わって旅行シーズンを迎えた大学生たちで思いのほか混雑している。剣心は近くに人がいないことを目の端で確認してから小さな声で言い継いだ。
「休んだら、会えないし」
 小さく笑った剣心の目は、営業用の無意味ににこやかな笑顔とも、時折見せる冷たい笑い方とも違って、まっすぐに左之助に向かっていた。灼かなかったとはいえ、鼻の頭と頬はさすがに少し赤い。その顔が妙に幼く見えて、左之助はたまらず手を伸ばした。驚いて身を引こうとするのを許さず引き寄せ、強く抱き締める。また張り飛ばされるかと思ったが、意外にもおとなしく胸に顔を埋めてきた。
「楽しかったな」
「うん」
 夢のような。
 手垢のついた陳腐な言葉が、手垢がつこうが陳腐だろうが使われ続ける理由を左之助は知った。
 本当に、そうとしか言いようがなかった。
 たしかに、最初のテストダイブではレギュレーターをくわえ忘れて溺れそうになるというとんでもない失態をさらしたし、ジンベエシュノーケリングでは興奮のあまり店の先輩に借りた水中デジタルカメラを海に流してしまったし、いけ好かない同乗客とちょっとしたいざこざを起こしたりもした。その挙句、いったん切れると左之助以上に歯止めのきかない剣心があわや相手を半殺しにするかというような場面もあった。だが、そんなことは些細なことだった。
 潜って食べて寝て、潜って食べて寝て、また潜って食べて寝て。
 昼のインターバルは思い思いにデッキチェアを陣取ってひたすらボーーッとしていた。左之助は舳先近くに、剣心はインナーデッキに。たまに目が合うと、黙って微笑を交わす。そして夜になるとリーフデッキで酒を呑んだ。黒い海と蒼い空と眩暈がするほどの星と波音を肴に。
「また行こうな」
「うん」
「次はガラパゴスだ」
「いきなり?」
「おう。やっぱ行っとかないと」
「じゃあその前に、それこそ英語」
「するする。すぐする。なんぼでもする」
 くすくすと笑う声が胸腔に響く。背を丸めて額で額に触れると、意図を察した剣心がさすがに眉を寄せた。
「……さの。人が」
「上等」
 左之助の指が顎をすくい上げて、口移しに囁く。
 二つの影がひとつに溶けて、しばらく舗道を揺らした。




「おはようござ……え? え?」
 いつものように玄関ドアを開け、目の前の光景に剣心は慌てた。十日ぶりにやってきた東谷家。その上がり框で右喜が正座をして待ち構えていたのだ。
「え、なに? 右喜ちゃん何してるの?」
「お願い剣ちゃん、『うん』って言って!」
「は?」
「いいから『うん』って言って!」
「と言われても。だから何?」
 すうっと息を吸って、意を決した様子で右喜が言う。
「あのね、こないだの卒業制作コンテストで私、吉岡吉男賞をもらったじゃない?」
 それはもちろん知っている。たしか新しい和装スタイルをテーマにした企画で、奇をてらわない自然体の現代的なアレンジが評価されたと聞いた。
「で、三月の卒業式で、そん時のコンセプトプレゼンテーションを完成させてショーをすることになったのね」
「へえ、すごいじゃないか」
「そうなの。就職先の上の人も見に来るそうだし、私どーーーしても!成功させたいのよ!」
「うん、それはがんばらないとね」
「じゃあ応援してくれる?」
「もちろん」
「手伝ってくれる?」
「そりゃ俺にできることなら」
「ほんとね? 絶対ね? 男に二言はないわね?」
「え、うん、だけど……」
「きゃーやったあー! ありがとう剣ちゃん! これで完璧。頼んだわよ!!」
「は? ってなにを? 右喜ちゃん??」
 だが、もうそんな問いかけなど右喜の耳には届いていない。
「お兄ちゃん聞いた? 剣ちゃんオッケーって!!」
 と跳ねながら、ダイニングルームに飛び込んで行った。
「なんで? 一体なんだって言うんだ?」
 首を傾げながら後に続くと、珍しくもこんな早朝から一家四人が勢揃いしている。
「いいわねお兄ちゃん。手伝ってくれるわよねっ!」
 相変わらずハイテンションな右喜が、こちらは半睡半醒の左之助に迫っていた。
 かたわらで、呆れ顔の央太とニヤリと片頬を歪めた上下衛門がそれを見ている。
「おう、おはよう、剣心さん。しかしアンタも気前がいいねえ」
「あ、おはようございます。長い間ご迷惑おかけしました。……え?気前?」
「聞いたぜ。どら子の卒業式、手伝ってやってくれんだろう?」
「馬鹿剣心! なんでそんなの引き受けやがった!」
「うるさいわねっ。お兄ちゃん往生際が悪いわよ。剣ちゃんがいいって言ったら自分もいいって言ったじゃないの」
 どうも不可解だ。
 右喜の作品がコンテストに入賞したときは皆大いに喜んだ。ファッション系スクールに通う彼女の身なりを日頃は珍妙奇天烈と苦い顔で見ている上下衛門にとっても娘の成果はやはり嬉しかったようで、受賞した作品について右喜と熱心に話し込んだりもしていた。
 それを晴れ舞台で披露できるというのに、どうしてそんなに非協力的なのだ? なぜ喜んで手伝ってやらない? しかも「気前がいい」??
「ちょ、ちょっと待ってください! なんでみんなそんなに退いてるんです? チャンスじゃないですか! どうして手伝ってあげないんです?」
 なんとも言えない複雑な表情でこっちを見ているのが三人、目を逸らせているのが一人。
「やいコラ右喜。お前、剣心になんつって説明しやがった」
 すごむ左之助に、右喜が三和土の会話を再現した。
「……だからな剣心。お前、人の話は最後まで聞けっていつも言ってるだろうが」
「いまさらダメはなしよ! だって剣ちゃん承知してくれたもんね。男に二言はないって言ったもんね」
「右喜はお前に女装させてステージに出そうとしてるんだぞ?!」
「え? ……えええーーーーっ?!!」


「だって、剣ちゃんのイメージでコーディネートしたんだもん。他の人じゃ絶対ムリ!」
 開き直った右喜が胸を張って言う。
 彼女の卒業制作のテーマは『現代家族のきものライフ』。
 ミドルエイジの両親、若い娘と弟。つまり自分自身のイメージを中心とした仮想家族を想定し、年代と価値観の変化による着こなしの変遷を表現した。
 コンテストでは、コンセプトシートとイラストレーション、そしてメイン作品のみ人体展示。だが今回はショーなので、全作品を自分ないしはモデルが着用してステージに上がらなければならない。
 その“母親”のモデルを、剣心にしてほしいと右喜は言っているのだ。
「ステージを歩いて、行って帰ってするだけだから。お願い! 私の将来がかかってるの! 助けると思って! ねっ!」
 右喜が就職する中堅アパレルメーカー企画部の上司も来るというから、それもあながち過言ではない。それに知らなかったとはいえ一旦了承したという引け目もある。
「二度はないよ?」
 降参のポーズで剣心が言うと、右喜は目を輝かして激しく頭を上下させ、部屋の向うで左之助が今日何度目かの大きな溜め息を吐いた。
 上下衛門と央太がいつも通りに家を出、後には既に春休みに入った右喜と剣心、職業柄世間標準より数時間遅れで仕事に行く左之助が残された。
 右喜はすっかり上機嫌で、朝食の片付けをする手も軽やかだ。
「でもよかったぁ。昨日お兄ちゃんを見たときはどうなることかと思ったけど」
「なんで?」
「だって真っ黒なんだもん」
「?」
 剣心は掃除機のスイッチを切って続きを促した。
 この家には『学校・仕事が休みのときは家事を手伝うこと』という鉄則がある。最初剣心は自分の仕事だからと断ったが、では手伝わせるのを仕事だと思ってくれと言われて引いた。不慣れな子どもたちの手伝いを最初は面倒に感じたが、子どもは新しいことをすぐに吸収した。そして新しい環境でぎこちなかった家族の関係にもプラスに作用した。こんな時代にこんな父親もいるのかと感心したことを剣心は今も覚えている。
「あのコーディネートはさ、剣ちゃんのイメージが発想の原点だったわけ。白くてスベッスベのお肌とか、サラサラの赤い髪とか、ミステリアスな雰囲気とかね。だからそんなアメ村のサーファー崩れみたいなのじゃイメージ丸つぶれなの。なのにお兄ちゃんったら馬鹿みたいに黒くてさ。剣ちゃんもこんなだったらと思ってゾッとしたわ」
「俺、ダメなんだ。焼いても赤くなるだけで」
「あ、やっぱり? それっぽいよね。肌薄いし。お兄ちゃんなんかただでさえ獣系なのに、あんな真っ黒になっちゃって。あれじゃほんとただの野獣」
 言いえて妙の発言に剣心は思わず噴き出した。
「うるせーぞテメエらっ!」
「なによー。カッコイイって褒めてんのよ。そんなことより早く支度しないと遅れるよ?」
 うっと詰まった左之助が肩をいからせて部屋に身支度をしに入るのを見送り、右喜はやれやれとばかりに首を振った。
「黙って立ってりゃいい男なんだけどなぁ。ねえ?」
「……えっ。あ、うん、そ、そうかな。そうだね」
 中途半端な相槌の声が変にうわずったのは、いや何をしていてもいい男だと思うがと心の中でひそかに反論していたところに突然話をふられたせいだが、右喜はちがう意味にとったようだ。
「でもどっちがどうとかそんなんじゃないよ。剣ちゃんは美人系だから全然比べられないし」
 返事に窮してとりあえず笑ったが、続いた右喜の言葉は剣心を硬直させるには充分だった。
「でもかえってよかったかも。黒と白、対照的で。二人並んだらすっごくお似合いの夫婦に見えるわ、きっと」
「――――?!!」
 だからどうしてそういうことを先に言わないんだ?!
 その科白を剣心はぐっと飲み込んだ。こんな風に目を爛々と輝かせている右喜になにを言ってもムダに決まっている。それどころか、かえって墓穴を掘る結果になりかねない。
 そう、口は禍の門というではないか。ここはひとつ帰ってゆっくり昼寝でもしよう。そうだそれがいい。
 そして脱力して家路についた剣心は、思い出しただけでも首筋がチリチリするような空恐ろしい夢にうなされ、さらにげっそりと疲れ果てて夕方の仕事に向かうことになった。

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